歴代優勝者とエピソード~第18回ショパンコンクール大解剖⑥
ショパン国際ピアノコンクールは1927年に第1回目が行われました。
それから5年ごとに開催されるように計画されましたが、戦争で中断されたこともありました。
今年はコロナで1年伸びて、第18回目となります。
歴代の優勝者たちとショパンコンクールにおける様々なドラマについてまとめてみました。
恐れ多くも、キラ星のごとき日本の先生方の敬称は略させていただきました。
最後の方に簡潔にまとめたPianeysの動画もあります♪
パリで活躍したショパンは、祖国ポーランドに帰りたいという願いも叶わず、39歳の短い生涯を閉じました。
第1次世界大戦後、やっと独立できたポーランドは、ポーランドの人々に愛国心を持ってもらうためにショパン国際ピアノコンクールを開催しました。
第1回大会 1927年
第1位 レフ・オボーリン(旧ソ連)
オボーリンがハチャトゥリアン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチの作品の初演を務めたとの情報がありました。
いずれもソ連を代表する大作曲家で1903~1906年生まれなのですが、レフ・オボーリンは1907年生まれで、正に同世代ということにビックリです。
レフ・オボーリンはウラディミール・アシュケナージの師匠としても有名です。
さらに驚くことに、そのショスタコーヴィチもピアノの名手で、この第1回ショパン国際ピアノコンクールに参加して入賞しています。
第1回大会の審査員はドイツ人1人を除いて、すべてポーランド人でした。
第2回大会 1932年
第1回大会の大成功を受けて、第2回大会は世界各国から200名以上のエントリーがありました。
▶第1位の決定方法がまさかの…
第1位 アレクサンダー・ウニンスキー(旧ソ連)
実は第1位が2人いました。
もう一人はイムレ・ウンガル(ハンガリー)で全盲の方でした。
今では考えられないことですが、審査員のコイントスで優勝はウニンスキーに決まったそうです。
ウニンスキーはその後アメリカに渡り、優秀な教師として多くのピアニストを育てました。
彼自身の演奏録音も多く残っています。
第2回大会の審査員は、ポーランド以外にもヨーロッパの近隣諸国から集められました。
モーリス・ラヴェルやカロル・シマノフスキの名前もあります!
第3回大会 1937年
第1位 ヤーコフ・ザーク(旧ソ連)
ヤーコフ・ザークは優勝後、母校であるモスクワ音楽院で教鞭をとり、教授から学科長にまで昇進しました。
ちなみにエキエル版でおなじみのヤン・エキエル(ポーランド)は第8位でした。
ショパンの自筆譜から弟子の楽譜のメモまで、あらゆる資料を精査し編さんした原典版。エキエルが中心となり、ポーランドの国家事業として取り組まれた。ショパン国際ピアノコンクールの推奨楽譜になっている。
また、日本人初挑戦で原智恵子が出場し、「聴衆賞」を受賞しました。
あでやかな振袖で見事な演奏をしたということです。
審査員にはドイツの名ピアニスト、ヴィルヘルム・バックハウスの名前もあります。
第4回大会 1949年
本来は1942年に行われる予定でしたが、第二次世界大戦勃発と、壊滅的な被害を受けた戦後の混乱で、ポーランドはコンクールから遠ざかっていました。
12年後のショパン没後100年にようやく開催の運びとなりました。
▶悲願のポーランド人初優勝
第1位 ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ(ポーランド)、ベラ・ダヴィドヴィチ(旧ソ連)
第1位は女性2人でした。
ちなみに、コイントスによる決定ではなかったそうです。
今までの優勝者は全て旧ソ連からでしたが、ハリーナ・チェルニー=ステファンスカがポーランド人初優勝ということで国中が熱狂しました。
彼女はショパン弾きとして世界各地で演奏活動を行いました。
ベラ・ダヴィドヴィチはロシアの名ヴァイオリニスト、ユリアン・シトコヴェッキーと結婚してアメリカに亡命し活動しました。
この頃からショパン国際ピアノコンクールの審査員として、歴代の入賞者たちの名前が挙がってきます。
第5回大会 1955年
第二次世界大戦で焼失したワルシャワ・フィルハーモニーホールの再建に合わせたために、6年後となりました。
第1位 アダム・ハラシェヴィチ(ポーランド)
第2位 ウラディミール・アシュケナージ(旧ソ連)
▶審査員ミケランジェリの辞任騒動
アシュケナージが第1位でないことに納得できなかったアルトゥーロ・ミケランジェリは、サインを拒否して帰国してしまいました。
田中希代子は第10位で日本人初の入賞者となりましたが、この順位に対してもミケランジェリがもっと上位であると憤慨したそうです。
ポーランドの作曲家、ヴィトルト・ルトスワフスキも審査員でした。
第6回大会 1960年
ショパン生誕150周年にあたります。
この大会から入賞は6位までとなりました。
▶驚くべき才能のコンテスタント
第1位 マウリツォ・ポリーニ(イタリア)
ポリーニの演奏は審査員に衝撃を与えるほど素晴らしいものでした。
名誉審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインは「我々審査員の中に、ポリーニほど見事に弾けるピアニストはいるのか?」という言葉を残しています。
なお、ロシアの作曲家、ドミトリー・カバレフスキーが審査員副委員長でした。
現日本ショパン協会会長の小林仁が入選しています。
第7回大会 1965年
▶現代のピアノ界を代表するピアニストの誕生
第1位 マルタ・アルゲリッチ(アルゼンチン)
それまでにも数々の国際ピアノコンクールで優勝していたアルゲリッチは、ショパン国際ピアノコンクールでは他を圧倒して第1位に輝きました。
最近は室内楽の分野にも力を入れており、自ら音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも注力しています。
中村紘子は第4位入賞でした。
中村紘子はこの後第13回大会~第16回大会まで、日本人では一番多く審査員を務めています。
審査員にはフランスの名ピアニスト、ヴラド・ペルルミュテールの名前もあります。
第8回大会 1970年
第1位 ギャリック・オールソン(アメリカ)
内田光子は第2位に輝きました。
第3位入賞のピオトル・パレチニ(ポーランド)は反田恭平の師匠です。
遠藤郁子は第8位でした。
この大会で永井進が日本人初の審査員となりました。
第9回大会 1975年
第1位 クリスティアン・ツィメルマン(ポーランド)
ハラシェヴィチの優勝以来、20年ぶりにポーランドに優勝をもたらしました。
当時18歳で最年少優勝者だったツィメルマンは、その後も人気が衰えず、現在も世界各地でリサイタルを行っており、現代を代表するピアニストの一人です。
大の親日家で東京にも自宅があるとか。
スペインの作曲家のフェデリコ・モンポウや、井口愛子が審査員を務めました。
第10回大会 1980年
第1位 ダン・タイ・ソン(ベトナム)
ダン・タイ・ソンはアジア人初の優勝者で、当時話題になりました。
海老彰子がエヴァ・ポヴウォッカと共に第5位に入賞しました。
▶イーヴォ・ポゴレリチ(クロアチア)をめぐるポゴレリチ事件
作曲家が弱音と指定している箇所を強打するなど、型破りなピアノ演奏を行うポゴレリチは、数々の国際ピアノコンクールで優勝を勝ち取ってきましたが、その奇抜な演奏はショパン国際ピアノコンクールでは物議をかもしました。
ポゴレリチが1次予選に合格したときに、これに納得できない審査員のルイス・ケントナーが辞任します。
また、ファイナリストに選ばれなかったことに強く抗議したアルゲリッチは「彼こそ天才なのに」と審査員を辞任しました。
これらによって絶大な人気を得たポゴレリチは「聴衆賞」「批評家賞」を受賞しました。
日本からは安川加壽子が審査員を務めました。
第11回大会 1985年
第1位 スタニスラフ・ブーニン(ロシア)
▶ブーニン旋風
NHKがショパン国際ピアノコンクールを取り上げた番組を制作・放送し、「ブーニン旋風」と言われるほどブーニンの人気が日本で高まりました。
小山実稚恵は第4位入賞です。
日本からは園田高弘が審査員を務めました。
第12回大会 1990年
▶第1位は確定と思いきや…
第1位 該当者なし
第2位 ケヴィン・ケナー(アメリカ)
1次予選では他を寄せ付けない見事な音色と音楽構成で、第1位はケヴィン・ケナーに決定と誰もが思ったほど期待されました。
しかし、残念ながら2次予選、3次予選、ファイナルと回を重ねるごとに、演奏は精彩を欠いていき、結果的に優勝は叶いませんでした。
ケナーはもともと胃腸が弱く、コンクール中も食事ができないほど衰弱していたようです。
この回は、横山幸雄が第3位入賞、高橋多佳子が第5位入賞した他、日本人が多数ファイナリストになりました。
日本からは安川加壽子、中村紘子が審査員となりました。
▶ギネス世界記録の横山幸雄
横山幸雄は2010年5月に約16時間をかけてショパン・ピアノソロ全166曲を暗譜演奏し、ギネス世界記録として認定されました。
第13回大会 1995年
第1位 該当者なし
第2位 フィリップ・ジュジアノ(フランス)、アレクセイ・スルタノフ(ロシア)
▶スルタノフ、授賞式ボイコット
アレクセイ・スルタノフは19歳のとき、最年少で1989年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝しています。
このショパン国際ピアノコンクールでは第1位にならなかったことを不服として、授賞式をボイコットして帰国してしまいました。
その後も世界各地でコンサートを行い、聴衆からの熱い支持を受けていましたが、2001年に転倒により硬膜下血腫で、左半身麻痺となってしまいます。
必死のリハビリを続けて右手のみで演奏活動もしていましたが、35歳の若さで亡くなりました。
宮谷理香は第5位入賞です。
日本人の審査員は小林仁、中村紘子でした。
第14回大会 2000年
▶15年ぶりの新星誕生
第1位 ユンディ・リ(中国)
ユンディ・リは当時18歳で、ツィメルマンの記録を塗り替えての最年少優勝者です。
2回続けて第1位が出なかったため、15年ぶりの優勝ということになります。
木村拓哉似の甘いマスクで、日本でも大人気になりました。
佐藤美香は第6位入賞です。
なお、第10回大会の「ポゴレリチ事件」で審査員を辞任したアルゲリッチが、今大会から20年ぶりに復帰しています。
日本人審査員は遠藤郁子、中村紘子でした。
第15回大会 2005年
▶アジア人が台頭
第1位 ラファウ・ブレハッチ(ポーランド)
第2位 該当者なし
第3位 イム・ドンヒョク、イム・ドンミン(韓国)
第4位 山本貴志、関本昌平(日本)
第5位 該当者なし
第6位 リー・カリン・コリーン(中国)
6位入賞までに第1位を除いて全てアジア人となりました。
第3位は兄弟です。
中村紘子が審査員を務めました。
▶賞を総なめ、ブレハッチ
ポーランド人の優勝は第9回大会のツィメルマン以来の30年ぶりで、ポーランドは熱狂に包まれました。
審査員満場一致で第1位に選ばれたブレハッチは、ポロネーズ賞、マズルカ賞、ソナタ賞、コンチェルト賞など、すべての賞を獲得しました。
2003年の浜松国際ピアノコンクールにて第1位なしの第2位になりましたが、第2位入賞の獲得賞金で、彼は初めてグランドピアノを買うことができたそうです。
▶辻井伸行も挑戦
この大会で忘れてはいけないのが17歳で挑戦した辻井伸行。
当時の出場資格は、17歳以上28歳以下でした。
カーテンコールが4回も起きるほどの素晴らしい演奏でしたが、二次予選を通過できず、ファイナリストに選ばれませんでした。
この演奏と結果をインターネットで見ていた世界中の方から抗議が起こり、後に異例の「ポーランド批評家賞」が贈られました。
そして、20歳でヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールの優勝に輝きました。
第16回大会 2010年
第1位 ユリアンナ・アウデーエワ(ロシア)
ショパン生誕200年の年で、マルタ・アルゲリッチ以来45年ぶりの女性の優勝です。
楽譜から意図を読み取り、隅々まで考え抜かれた音色による演奏は、審査員のアルゲリッチをうならせました。
ちなみに日本のヤマハ製ピアノを使用したコンテスタントの優勝はこれが初めてだったそうです。
残念ながら日本人コンテスタントは2次予選で全員が姿を消しました。
日本からは小山実稚恵が審査員を務めました。
第17回大会 2015年
▶ 悩ましい審査
第1位 チョ・ソンジン(韓国)
第2位 シャルル・リシャール=アムラン(アメリカ)
第3位 ケイト・リウ(アメリカ)
チョ・ソンジンは15歳で2009年第7回浜松国際ピアノコンクール最年少優勝を勝ち取っています。
今大会では、審査員の意見が分かれて長時間の審議となりました。
精密すぎるチョ・ソンジンの演奏に、名ピアニストのフィリップ・アントルモンが最低点を付けたのです。
1位なしの可能性もあったようですが、結果的にはチョ・ソンジンが優勝しました。
知性と芸術性を併せ持つ第3位のケイト・リウを推す人も多かったようです。
小林愛実がファイナリストになりましたが、第18回大会もさらに活躍が期待されています。
日本からは海老彰子が審査員を務めました。
第18回大会 2021年
新型コロナウイルスの影響で、実施が1年遅れました。
とても楽しみにしています♪
まとめ
第1回大会(1927年)~第17回大会(2015年)までのショパン国際ピアノコンクールの歴代の優勝者たちと様々なドラマについて、まとめてみました。
歴代の入賞者たちはショパン国際ピアノコンクールの審査員として、毎回名前が挙がっています。
【ショパンコンクール】歴代優勝者まとめと有名エピソードを解説!【保存版】
簡潔に動画でご説明しています。
こちらもぜひご覧ください♪
ショパン国際ピアノコンクールに関連する他の記事はこちらからどうぞ♪
子どもから大人までピアノ指導する傍ら、本サイト「ピアノサプリ」を開設し運営。【弾きたい!が見つかる】をコンセプトに、演奏効果の高いピアノ曲を1000曲以上、初心者~上級者までレベルごとに紹介。文章を書く趣味が高じて、ピアノファンタジー小説「ピアニーズ」をKindleにて出版。お仕事のお問い合わせはこちらからお願いします。